特殊な絆

廊下を歩くと生徒達が挨拶や会釈をしてくる。それらに一つ一つ応えながら向かった先は、美術室だった。

葉村君は美術部員なので、放課後になるとそこでスケッチをして時間を過ごす。そんな様子を時々見に行くと、出来たばかりの恋人はその手を休め、入り口に現れた僕の元へ駆けてきてくれる。

照れ臭そうな表情と共に。

しかしそんな幸せも長くは続かない。僕等の会話はすぐに邪魔されてしまう。

「おっ、良いところに来たな」

こうして目の前に立ちはだかる宇佐先生の所為で……。

僕の複雑な感情は、きっと表情にも表れているに違いない。それでも宇佐先生は気にするどころか興味がないらしく、すぐに別の方へと視線を向けた。

視線の先……開いたままの美術室の中を見つめている。

「ほら、見てみろよ」

言われて室内を見ると、葉村君がいた。キャンバスと向き合い、熱心に筆を走らせている。

真剣な眼差しは異空間での戦いで垣間見せた物に似ていたが、表情は明らかに生き生きとしている。楽しくて仕方がない、その気持ちが見ているこちらへと伝わってくる程に。

「とうとうハム君が本気モードで作品を描いてくれたんだ」

「……でも、葉村君は……」

葉村君は過去の出来事の所為で、人一倍静かな生活を望んでいる。だからこそ本来の実力も性格も抑え込んでいた筈だ。その葉村君が自らその禁を破るなんて、僕には到底信じられなかった。

「ま、色々あったからな……逆にそのことで吹っ切れたのか、俺の説得に応じてくれたよ」

「わざわざ説得されたんですか? 本人が嫌がっていたのに?」

「別にハム君は嫌がってたわけじゃないだろう? 何かしら事情があって我慢はしてたみたいだけどな」

どうやら葉村君が何故目立たないように暮らしてきたか、その詳しい事情までは聞いていないらしい。

その事実に知らず安堵する自分がいた。

『ハム君、生徒会長と仲良くするより先生といちゃつかないか?』

『……俺達の邪魔してないで、部活の顧問としてまともに働いて下さいよ』

『生憎今はすることがなくてな』

『ないなら作るぐらいの気持ちを持って下さい』

『ハム君の愛はいつも厳しいな……』

『だから愛はありませんっていつも言ってるじゃないですか! ついでにそのあだ名もいい加減にやめて下さい!』

『ハム君はハム君じゃないか』

『葉村です!』

元々葉村君は宇佐先生を苦手に思っていたそうだ。しかし異空間での出来事があってからそれも改善されたのか、傍目にはとても親しげに映る。

「……良い絵を描くよ、流石は俺のハム君だ」

そう誇らしげに呟く宇佐先生は、眩しい物を見るように目を細めていた。

その眼差しは生徒へ向けるべき物じゃない。明らかにそれ以上の熱情を含んでいる。

「葉村君は先生の物じゃないですよ」

「知ってるさ。お前の物だってこともな」

「分かっているなら挑発的な発言はやめてもらえませんか?」

先生はゆるりと口端を上げて笑う。

「俺からハム君を奪ったんだ、これぐらいの仕返しなんて可愛いもんだろう?」

「奪うも何も、最初から先生と葉村君の間には教師と生徒以上の関係はなかった筈です。図々しいにも程がありますよ」

「しかし今はそれ以上の関係だ。加害者と被害者っていう、特別のな」

自嘲の台詞でありながら、口にする宇佐先生は何処か嬉しげだ。葉村君との間に他の誰にも割り込めない絆がある、それが心の支えになっているのだろう。

例えそれが加害者と被害者という、歪んだ繋がりであったとしても。

『……先生は余り強い人じゃないですからね。
特に僕に対しては負い目も感じているようですし、ほっとけないんですよ』

宇佐先生のことを尋ねた時、そう言って困ったように笑う葉村君を思い出し、言い知れない不安が沸き上がる。

幾つもの偶然が重なり合い、葉村君は僕を選んでくれた。しかしそれが一つでも狂ったら、違う展開があったのかもしれない。

これからもそれが起こらないという可能性はないのだ。

『ま、色々あったからな……逆にそのことで吹っ切れたのか、俺の説得に応じてくれたよ』

葉村君は宇佐先生の言葉に心を動かされ、本来の実力で絵を描き始めた。しかし説得したのが僕だったとしても、同じ結果が得られただろうか?

何の証拠もなしに恋人の気持ちを疑うなんて、最低の行為だ。けれど信じ切れない自分がいるのも確かで。

気付くと僕は美術室に背を向けていた。

「会っていかないのか?」

「……絵を描いているところを邪魔するのは、悪いですから」

「そうか。じゃあ俺はハム君の所へ行くとするかな」

立ち去る途中で一度だけ振り返ると、宇佐先生は葉村君の側にいた。

二人を包み込む穏やかな空気は、僕の不安を確信に変えてしまうほど自然なものだった。

葉村君との僕との関係は、その頃から段々とギクシャクしていった。

彼は彼で作品を仕上げるべく忙しくしていたし、僕は僕で生徒会の引き継ぎや受験のことに意識が向いてしまい、気付けば付き合い始めた頃のような頻繁な会話も約束もなくなり、疎遠になり始めていた。

美術室に行けばいい。何度もそう思い、その度に彼等の親しげな姿がちらつき、二の足を踏んでしまう。

しかしそんな時に限って会いたくない人間と会ってしまうものだ。

「おっ、いたいた♪ 会長……じゃないから元会長か、お前に用があるんだよ」

「……すみません、僕も色々と忙しいので」

その場から逃げようとした僕の背中に、宇佐先生の冷たい声が突き刺さる。

「馬鹿な奴だな、折角のチャンスを自ら棒に振るなんて。ま、俺としちゃ好都合だけどな」

「どういうことですか?」

「お前なぁ、ハム君が強い奴だと完全に思い込んでるだろう?」

「実際強いじゃないですか」

あの異空間での冒険や戦いの中で、彼は誰よりも強い意志を持っていた。それは宇佐先生だって知っている筈だ。

「確かに俺達に比べれば遙かに強いさ。しかし気弱になる時だってある。年頃なんだ、恋人相手に対しては特にな」

宇佐先生は不満そのものといった顔で言う。

「ハム君がどうして本気で絵を描く気になったか分かるか?」

「……宇佐先生の説得があったから、ですよね」

「俺の説得はただの切っ掛けだ。ハム君が描く気になったのは、お前が理由だよ。『会長に見せたい風景があるから、描いてみますね』ってな」

僕に見せたい、ただそれだけの為に自らの禁を破った……!?

驚きに固まる僕に、更に言葉を続ける。

「それなのに肝心のお前はハム君から離れていくばかり。幾らハム君が強いとはいえ、恋愛に関してはえらく消極的なんだぞ? そんなことも気付かないでハム君に淋しい想いをさせやがって……俺が父親だったら、今すぐ問答無用でぶん殴ってるところだ」

宇佐先生はポケットから何かを取り出し、僕に放り投げる。慌てて受け取り手の中の物を見ると、それは鍵だった。

「今日は美術部は休みでな。作品の微調整がしたいというハム君だけが、一人で美術室にいる。俺は戸締まりの役目があるから後で行くつもりだったが、その役目を譲ってやるよ」

「どうして……」

そんな言葉が口を突いて出る。

宇佐先生は葉村君に対し、生徒以上の感情を抱いている。それなのに今先生がしていることは、僕と葉村君の仲を修復させるような行為であって、余りにも矛盾していた。

僕の疑問に軽く肩を竦める。

「本と、どうしてだろうな。このままほっとけば確実にお前から奪えるのに、そうした後のハム君を思うと、それができなかった」

負い目を感じているから、そう葉村君は思い込んでいるけれど。先生はそんな気持ちを超えて彼が好きなんだ。そして余りにも大切過ぎるからこそ、今の関係を壊せないでいる。

断ち切ることのできない絶対的な絆は、葉村君も意識している。だからこそ彼は先生を気に掛け、無意識のうちに先生の心を救ってしまう。

そんな状況下で、葉村君が宇佐先生の深い想いを知ってしまったら。そう考え、ゾッとする。

僕は受け取った鍵を握り締め、美術室へと向かい走り出す。

葉村君は僕を許してくれるだろうか?

以前のように笑いかけてくれるだろうか?

僕に絵を見せたくてキャンバスに向かっていた葉村君の、真剣な眼差しを思い出す。彼の気持ちがあの時のまま揺らがないでいてくれれば、僕等は元通りになれる筈だ。

「次に同じ事をした時には、俺も躊躇しないからな?」

擦れ違い様に言われた台詞は、いつまでも頭の中に響き続けていた……。

記載日2005年10月15日
生徒会長×智則前提で、宇佐先生VS生徒会長、仁義なき戦い。



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