『笹川、浩平に会ったら「たまには俺の所に顔を出せ薄情者が」って伝えておいてくれるか?』
『え? はぁ、それは構いませんけど』
戸惑いながらも了承すると、矢村先生は真剣な顔で言う。
『何処かの誰かさんの所為で、めっきり資料室に来てくれなくなったから淋しいのなんの。そこら辺を情に訴える感じで伝えといてくれ』
『大丈夫です、先生! 俺、意外と演技派なんで必ず先輩の涙を誘って見せます!』
『はは、そりゃ頼もしい台詞だな。じゃあ期待しておくとするか』
◇
休み時間、移動教室の為に廊下を歩いていた俺が矢村先生に呼び止められ、中里先輩への言付けを頼まれた経緯を説明すると、先輩は苦笑いした。
「お兄ちゃんの発言は相変わらずだけど、君も君で返事がおかしくない?」
「そうですか? 俺はともかく矢村先生の言動は確実に先輩も受け継いでますよ? 微笑ましさを通り越して面白可笑しい二人の会話を聞いていると、兄弟のように育ってきただけあるなーって、いつも感心しますもん」
「う、嬉しくないなぁ、それ……」
兄弟のように育ってきた、歳の離れた幼馴染み。それが矢村先生と中里先輩の関係だ。
学年が上がって俺も先生の授業を受けるようになったけど、笑い話を交えながらの授業はなかなかに面白く、生徒間での評判の良さも頷ける。
「そういうわけですし、これから資料室に寄って行きませんか? 『何処かの誰かさん』って部分に微妙な棘を感じましたし、ここは先生のご機嫌を取っておかないと」
「笹川君の考え過ぎじゃないかなぁ。僕、お兄ちゃんに君とのことを話してるわけじゃないよ? お兄ちゃんも特に突っ込んだことは聞かないし」
先輩はそう言うけれど、多分『聞かない』のではなく、『聞かなくても分かる』のだろう。先生と先輩はそれだけの長い時間を共に過ごしているのだから。
「でも先輩のことは小さい頃から知っているんですし、何も言わなくても気付くんじゃないですか? 俺が先輩にとって特別な存在だって」
俺の台詞に先輩は顔を赤らめる。
「どうしてさらっとそういうこと言うかな~……」
「違うんですか?」
「~っ、違わないけど恥ずかしいだろ!」
否定したって照れからだとちゃんと解るのに、先輩は俺への気持ちを否定しない。羞恥に目を伏せたりそっぽを向いたりすることはあっても、こうして正直な気持ちを伝えてくれる。
それがどんなに俺の心を救ってくれているかなんて、先輩は知らないんでしょうね。
「先輩があんまり可愛らしい反応をするから、場を弁えずに抱き締めたくなってきました」
「廊下でそんなことしたら僕だって怒るよ? 手刀かますよ? 頭の上に熱々の缶コーヒー乗せちゃうからね?」
「流石にそれは勘弁して下さいよ~」
やっぱり矢村先生の影響を受けてますよ、先輩! 怒り方が微妙におかしいですって!
「そんなに情けない顔しなくても大丈夫だよ、冗談だから」
「本とですか? さっきの手刀とか、柳瀬先輩にやってるの見たことあるんですけど」
「あれは柳瀬に突っ込み所が多いからだし」
だからって後ろから全力で手刀とか、普通に変ですよ?
初めて出会った時も柳瀬先輩を前に全く物怖じしてなかったし、温和そのものな外見の割りに肝が据わっているというか怖い物知らずというか。
「さて、お兄ちゃんも淋しがってるし、顔見せに行かなきゃね。丁度話したいこともあったし」
俺は先輩と肩を並べ、資料室へ向かうべく廊下を歩き始めた。
◇
「お兄ちゃん、いるー?」
ノックもせずにいきなり資料室の扉を開けた先輩の声に、机に向かって書き物をしていた矢村先生はこちらを振り返り、呆れたような顔をする。
「『いるー?』じゃないだろ、ノックをしろノックを」
「はーい」
「『はーい』じゃなくて『はい』だ」
注意されると先輩は何故か俺の方を見る。
「歳を取ると小言が多くていけないよね、笹川君もそう思わない?」
「先輩……ノーコメントは駄目ですか? 俺、先生の授業を受けているから迂闊な発言できないんですよ」
「よしよし、笹川は上下関係の何たるかが解ってるようだな」
先生は席を立ち、部屋の一角に置かれたポットの前へと足を運ぶ。
「最近の俺はハーブティーに凝っててな。お前等にとっておきのどくだみ茶をご馳走してやろう」
どくだみ茶ってハーブティーの一種ではないような……。
見れば先輩も首を傾げている。どうやら俺と同じ疑問を抱いたらしい。
紅茶だったり中国茶だったりと、先生が淹れてくれるお茶は定期的に変化している。料理上手な先輩に家事全般をスパルタで叩き込んだのは先生だそうだから、かなりグルメな人なのかもしれない。
資料室の中に入り、手近にある椅子に腰掛ける。先輩の方はお茶の用意をしている先生の横に並び、楽しげな声で先生に話しかけた。
「お兄ちゃん、今度お兄ちゃんのとこに行っていい? 久しぶりにDVD買ったんだ~」
「……お前が嬉々としてDVDを見たがるってことは、ジャンルはあれか?」
「うん、ここ最近の中では群を抜いて凄いんだ! だから一緒に見ようよ」
「お前なぁ、そういうのは俺じゃなくてくっ付いてきてる後輩に頼めよ」
「そうしたいんだけど……笹川君は、絶対に無理だと思う」
中里先輩が見たがっているのは、つまりアレなのだろう。
俺は中里先輩が好きだし、先輩の趣味嗜好にできる限りは付き合いたい。けれど悲しいかな、俺が最も苦手にしているホラー物、それが先輩が一番気に入っているジャンルだった。
誰だって恋人の前では良い格好をしたい。なので嘘でも平気な振りをしたいところだが、初めて一緒に映画を見に行った時に醜態を曝した所為で、先輩には既にバレている。
しかも恋人同士になった後、言い難そうに「ごめん、実はホラー物でも血飛沫や肉片飛びまくりなスプラッター系が一番大好きなんだ……」と先輩に告白された時、二人きりの部屋でいちゃつきながらDVD鑑賞という夢は封印しよう、そう固く心に誓った。
だからこの件に関して俺は口を挟まないし、挟めない。
「俺だって得意じゃないんだぞ?」
「分かってるよ。だからいつものジャンボカスタードプリンをお土産に」
「駄目だ、磯路屋の『特選カスタードシュークリーム八個セット』を持ってこい」
そういえば俺の義母さんも好きなんだよなぁ、あのシュークリーム。確かデパートに出展しているだけあって、値段の方も気軽に購入できないレベルの筈だ。
「それって僕だって滅多に食べられない高級品じゃないか! 高校生に要求するならもっとリーズナブルな物を選ぼうよ!」
「甘いな、浩平。安月給を前にそんな良心とうに捨てている。どうせDVD鑑賞の後は食欲無くすどころか『ご飯何?』って言い出すんだ、人件費だと思って俺に貢げ」
「……買ったらお裾分けしてくれる?」
「よし、箱の中の匂いぐらいは嗅がせてやろう」
「何か最低なこと平然と言ってるし!」
俺は堪え切れず、小さく吹き出してしまった。それは二人の耳にもしっかり届いていたらしく、同時に俺の方へと顔を向けてくる。
「全く、お兄ちゃんが大人げないから僕まで笹川君に笑われたじゃないか」
むくれている先輩に対し、先生は怪訝そうな顔をする。
「笹川、お前の愛しい先輩が他の男と仲良しこよししてるっていうのに、随分と余裕だな。ここは男として嫉妬に駆られる場面じゃないか?」
「えっ、な、何言ってるのお兄ちゃん!?」
先生の台詞に先輩は真っ赤になって慌てふためいている。しかし俺からしてみれば、『やはり』という気持ちしか湧かなかった。今までだって向けられる台詞には挑発が含まれていることが多く、その度に俺は能天気そうに振舞って上手くかわしてきたのだから。
「あはは、嫌だなぁ、俺はそこまで心の狭い男じゃないですよ『お義兄さん』」
一瞬、室内が静まり返る。
先輩は意味に気付いていないのかきょとんと目を瞬かせているが、対する矢村先生はといえば、思いっきり顔を引きつらせていた。
ちょっとした意趣返しのつもりだったけど、おふざけが過ぎたかな?
「笹川、お前とは一度じっくり話し合う必要がありそうだな」
「拳で語り合おうとかそういう物騒なのはお断りですよ、先生」
先生は笑顔だが、目は笑っていない。普段は大らかそうなのに、先輩絡みだと途端に狭量になるようだ。それだけ先輩を大事に育ててきたからこそなのだろうけど。
「え、えっと、二人ともどうしたの???」
困った顔をしている先輩を見ていると、ぎゅっと抱き締めてしまいたくなる。
「お前の後輩と軽くコミュニケーションを取ってみただけだ」
「いや、全然そんな雰囲気じゃなかった気がするんだけど」
俺の願望を体現するかのように、目の前では先生が先輩を後ろから抱き締めている。困惑した顔をしてはいるものの、先輩は拒絶するでもなく大人しく腕の中に収まっていた。
「そうしてるとまさに『溺愛されてる!』って感じですね~」
「笑い事じゃないよ笹川君……」
矢村先生は納得がいかないのか訝しそうに俺を見る。『気付かないのか?』と言わんばかりに。
……気付いているに決まってるじゃないですか。
俺は先輩に恋愛感情を抱いている。だからこそ嫌でもすぐに分かってしまった。
『いつまで経ってもお兄ちゃんは過保護だから困るよ』
そう言っていつも笑う先輩は何も知らず、きっとこの先も知ることはないのだろう。
自分が矢村先生に深く愛されているという、真実を。
◇
矢村先生にどくだみ茶をご馳走になり、暫くの雑談の後、俺と先輩は資料室を辞した。
「美味しかったね、どくだみ茶。でもお兄ちゃんの薀蓄がね~……本とあれどうにかならないのかな? 僕だけならともかく笹川君まで巻き込んでるし」
話に相槌を打ちながらも、心では別のことを考えてしまう。
中里先輩は『自分は矢村先生に育てられたようなものだ』と、よく言っている。それだけ先生の影響を受けて育ってきたのなら、兄として慕う先輩の感情を、恋愛感情へと上手く誘導させることもできた筈だ。そうでなくても一番信頼している先生から真摯な想いをぶつけられれば、兄としてしか見ていなかった先輩だって心が揺れるだろう。少なくともそうであれば俺が入り込む余地はなかった。
しかし先生は幾度もあったであろうチャンスを生かすどころか、自らの想いを兄弟愛という名の下に隠し、それは俺が先輩の恋人になった後も静かに続いている。
矢村先生は、中里先輩が幸せならそれでいいのかもしれない。他の相手と結ばれたとしても、それが先輩の幸せになるのなら。笑顔でいてくれるなら、ただそれだけで。
見守ると言えば聞こえはいいが、そんなの自虐的な愛し方としか思えなかった。
俺はとてもそんな風には生きられない。
だから友人である辻井の想いを知りながら中里先輩に惹かれ、結果的に辻井を裏切り先輩を奪い取った。それが辻井を深く傷つけると分かっていながら。
……他人の夫を奪い取り、俺を捨てて逃げた実の母親のように。
同じ過ちを犯すまいと誓っておきながら、惹かれていく心に嘘は吐けなかった。どんなに抗おうが身体にはあの女の血が半分流れていると、嫌でも思い知らされて。
「どうしたの? さっきからずっと黙り込んで」
不安そうな顔をされてしまい、慌てて口を開く。
「大したことじゃないんです。俺も矢村先生みたいになりたいなー、って」
「お兄ちゃんに?」
「えぇ、先生は先輩に頼りにされてますからね。それに比べて俺は甘えさせてもらってるばかりで、頼られるには程遠い感じじゃないですか。やっぱり憧れますよ」
矢村先生に嫉妬心は感じないものの、どう足掻いても先輩より年上にはなれないだけに、年齢の面では羨ましいという気持ちがあった。
俺の台詞に先輩は眉を潜める。
「僕はお兄ちゃんみたいになってほしくて君を選んだわけじゃないよ? それに君は一人で思い悩んだりしそうだから、甘えてくれないとその、恋人の僕としては逆に心配で……」
言っていて恥ずかしくなってきたのか段々と小声になっていく様子は、恋人の欲目を抜いても可愛らしい。
「じゃあお言葉に甘えて抱き締めてもいいですか?」
慌てて首を横に振る先輩の耳元で囁く。
「つまり他の場所なら良いってことですよね?」
逃げ出してしまった先輩をゆっくり追いかけながら、この後の展開を考える。
何も言わなかったから、OKしてもらえたと受け取ることにしよう。本人は否定するだろうし、抱き締めるだけで終わらせるつもりもないけれど。
きっと中里先輩なら、最後には困ったような微笑みを浮かべて許してくれるだろう。
もし人の感情が、目に見える形で表せるなら。長年密やかに先輩を愛し続けている矢村先生の前に、俺の想いは負けてしまうのかもしれない。
そう思うと少しだけ卑屈な気持ちになる。
『僕がいるんだから、君はもう、一人で背負い込もうとしなくていいんだよ』
辻井との友情を投げ捨て恋を選んだ俺に、中里先輩はそう言ってくれた。
俺は一人で恋愛をしているわけじゃない。寄り添うように先輩の想いが支えてくれている。だから俺達が……先輩が幸せでいられるように、この想いを育てていこう。
そしていつかこの恋が、愛へと形を変えていけたのなら。
その頃には俺にも理解できるだろうか?
見守り続けることを選んだ、矢村先生の愛の形を……。
記載日2008年4月19日
新カウンター230000キリ番リクエスト。「恋なか」笹川×中里グッドED後。
「それぞれの形」は23万を踏んで下さったリオさんに捧げます。