図書館を出ると、蒸し暑い空気が一気に僕等を取り囲む。少し前まで冷房のききすぎる室内にいたからなのか、身体はすぐにじんわりと汗ばんできた。
隣を歩く智広君は空を仰ぎ見る。
「あれ? 来た時は晴れてたのに、今は曇ってるよ」
「もしかしたら一雨来るかもしれないね」
「でもあんなに天気が良かったのに」
「この時期は大気も不安定だし、通り雨も多いからね。そんなに不思議なことじゃないよ」
「……だったら傘、持ってくれば良かったな」
その表情は少し悔しげだった。
「急いで帰れば濡れないから大丈夫だよ」
僕の言葉は見当違いだったらしい。智広君は一瞬きょとんとした顔をした後、仄かに目許を赤くして呟く。
「そうじゃなくて……こういう時に傘があったら、気兼ねなく相合い傘とかできるかな、なんて……」
「……」
僕と智広君は、僕が彼と本間先生の仲を勘違いしたりと色々あったものの、今現在は恋愛関係としての付き合いをしている。
とはいえお互い同性だし、大っぴらに手を繋ぐこともできない。でもそれは最初から分かり切っていることだし、智広君は寧ろそういったことを望むタイプではないと思っていた。
だからこそ意外な台詞だった。
「惣一君は……そういうべたべたするのって、苦手?」
黙り込む僕を不安げに見上げてくる。窺うような上目遣いは甘えているようにも見えて、僕の動揺を誘う。
「そ、そんなことないけど……」
衝動的に触れたくなる気持ちを、必死に抑えつける。
結果的に両想いになれたとはいえ、僕が無理矢理キスをした事実は変わらない。あの時の、驚きと怯えがない交ぜになった彼の表情を思い出す度、胸が痛んでしまう。
ずっと欲しかった一番特別な人を手に入れたんだ、もう二度と智広君を怖がらせたり傷つけたりしたくない。
ゆっくりでも良い、着実に互いの距離を埋めたかった。
それなのにこうして無防備に曝される智広君の唇を見つめていると、触れたいという誘惑に負けそうになるのだから、情けないな。
……頬に何かが当たる感触がした。そして微かな雨音と共に、地面に雨粒の跡が次々と増えていく。
どうやら天気が崩れるのは、思ったより早かったらしい。
「このまま僕の家まで走って行こうよ。惣一君に食べてもらおうと思って、図書館に行く前にプリン作ったんだ」
自分の為にお菓子を作ってくれる人がいる。
しかもこんなに可愛らしくて、僕の大切な恋人で。
智広君は色褪せた僕の日常に、鮮やかな色彩を与えてくれる。それは日常だけじゃない、僕の心にも。
「じゃあ急いで行こうか」
「うん」
僕等は降り出した雨の中、走り出した。
◇
雨足は予想以上に強かった。さながらバケツをひっくり返したかのようなどしゃ降りに、智広君が暮らすマンションのエントランスに辿り着く頃には、二人ともすっかり濡れ鼠と化していた。
互いに顔を見合わせ苦笑いする。
「お互い凄いことになっちゃってるね~」
「はは……本とそうだね」
智広君は濡れて額に張り付いた前髪を、軽く目を細めながら煩げに指で払っている。
その仕草に、心臓が大きく跳ね上がった。
普段は無邪気な明るさばかりが全面に出ているけれど、ふとした拍子に艶のある表情を覗かせる。それはギャップがある分、僕の理性を容易く奪いかねない。
今は真夏だから、智広君も当然シャツ一枚しか羽織っていない。濡れた服が身体に張り付き、透けた生地から肌が見え線の細さが余計に強調されている。
またも触れたい衝動に駆られる。
この恋をゆっくり大事に育てたいと思う反面、心の奥底で欲望のまま奪いたい気持ちが燻っている。
……そんなの、駄目だ。それじゃあ智広君の気持ちを全く考えずに、強引に口付けた時と同じじゃないか。
「惣一君、行こう? 早くタオルで拭かないと風邪引いちゃうよ」
僕の心の葛藤など知る由もなく、智広君は僕の腕を引っ張りエレベーターへと乗り込む。ただでさえ落ち着かない気持ちだというのに、狭い密室に二人斬りというのは、かなり心臓に悪い。
知らず顔を逸らしてしまう。
「惣一君、何でそっち向いてるの?」
怪訝そうな声にさえ、彼の方を見られない。下手に視線を合わせたら、見透かされてしまいそうで怖かった。
触れたくてどうしようもない、僕の邪な気持ちが。
軽い揺れと共に、エレベーターの扉が開く。僕が何も答えないからか、エレベーターを降りても変に気まずい空気が流れる。
それは部屋の玄関に着くまで続いた。
「……タオル、取ってくるね」
耳に聞こえる沈んだ声に、思わず智広君の腕を掴んでいた。彼の方を見ると、酷く困惑げな顔をしている。
「君を怯えさせるようなこと、したくないんだ……大切にしたいって、そう思ってる。でも……そういう格好とか見せられると、やっぱりその、僕も男だし、我慢とかできなくなりそうで……見てられなかったんだ」
智広君は真っ赤になり、踵を返してタオルを取りに行ってしまう。
勢いで言ってしまったものの、湧いてくるのは後悔ばかりだ。あれでは智広君を見て欲情してましたと告白したも同然だ。僕が自分の言動に落ち込んでいると、微かな足音と共に智広君が駆けてくる。
「はいこれ」
柔らかなタオルを手渡される。
「今お風呂の用意してるから、ちょっと待っててね」
「えっ、そんなの悪いよ!」
「遠慮しないの。ちゃんと身体を暖めないと風邪引いちゃうよ?」
諭すような口調がやけに可愛くて、表情が緩んでしまう。
「分かった。じゃあ君の後に入らせてもらうよ」
「あ、僕はいいよ」
「でも身体を暖めないと風邪を引くんだよね?」
「うっ……」
智広君は少し考え込んだ後、口を開く。
「なら、二人で入ろうか?」
一気に顔が熱くなる。もしもそんなことになったら、いよいよ僕の理性は崩壊してしまう。できるわけがない。
僕が慌てて首を横に振ると、小さな笑みを零す。
「それは流石に恥ずかしいから、僕もパスだけどね」
本気で言ったのではなく、最初から冗談だったらしい。
もしかして僕は、からかわれていた?
「……大切にしてくれるのは嬉しいけど……我慢とかできないのは、惣一君だけじゃないんだよ?」
そう言うと智広君は軽く背伸びして、僕にキスをした。
記載日2003年9月13日
新カウンター40000突破記念キリ番リクエスト。リクエストは「惣一×智広で、積極的な智広」。
「通り雨の誘惑」は40000を踏んで下さった、綾女さんに捧げます。